「孤独」と向き合うOriHimeだからできること。分身ロボットが実現する新しい生き方・働き方

OriHime

OriHimeパイロット
白髭萌(もえP)   しらひげもえTwitter
1997年奈良県生まれ。
出生後に「先天性右肺無形成症」と「側湾症」を診断され、生まれてしばらくは病院で過ごす。2016年4月に某大学看護科へ入学後、側弯症の手術を経験し、リハビリ生活がスタート。精神科の入院も経験。2019年4月、OriHimeパイロットに採用される。2020年4月からは、WheeLog!広報チームとしても活動中。

私たちの多くが、孤独を経験しているそうです。そのなかには、今も孤独感を抱える人々が含まれています。

「孤独」とは、どのようなときに感じるものなのでしょうか。

ある研究所では、孤独を「自分が誰からも必要とされていないと感じ、辛さや苦しさに苛まれる状況」と定義しています。

今回インタビューしたのは、OriHimeパイロットのもえPさん。

OriHimeは、『孤独の解消』をミッションに掲げるオリィ研究所が開発した、遠隔操作ロボットです。

世界中で外出の自粛が求められる今だからこそ、改めて「孤独」について、新しい生き方や働き方について、一緒に考えてみませんか。

分身ロボットOriHimeとは

はじめに、OriHimeについてオリィ研究所の濱口敬子さんにお話を伺いました。

–OriHimeというプロダクトについて教えてください。

OriHimeは、一言でいうと「存在を伝える遠隔操作ロボット」になります。

子育てや単身赴任、入院など物理的な距離による問題や身体的な問題によって行きたいところに行けない人が1人でも減るように、「もう一つの身体」として開発されました。

普段のコミュニケーションはもちろん、リモートワークやテレワークの際に負担を感じないように設計されています。

従来のオンラインコミュニケーションでは、会話は十分できるものの「存在感」といった点で改良点がありました。

遠隔地間でコミュニケーションをする人々が孤独を感じなくてもいいように、気兼ねなく話しかけられるOriHimeというロボットが生まれました。

OriHimeの使い方

操作手順はかんたんです。

初期設定を行った後、OriHimeを電源に接続します。あとはお手持ちのiOSまたはAndroid端末に専用のアプリをダウンロードし、マニュアルに従ってボタンを押すだけです。

OriHimeには、カメラやマイク、スピーカーが搭載されており、基本どこからでも遠隔操作が可能です。操作者は画面を通して、OriHimeの見た景色を見れるため、まるでその場にいたかのように感じられます。

最近では、就労やイベントの登壇、教育などでもOriHimeの導入実績が増えてきており、今後も様々な分野での活用が期待されています。

開発経緯と思い

–OriHimeはどのような経緯で開発されたのでしょうか。

オリィ研究所代表の吉藤オリィ(以下、オリィ)は昔から病気がちで、小学校5年生のときの入院をきっかけにそこから3年半ほど、ほとんど学校に通うことができない不登校、ひきこもりになっていました。

ほぼ自室で、酷いときは天井ばかり見つめ続け、時計の針をきき続ける毎日を過ごし、日本語を忘れてしまうほどの強い孤独に苦しめられました。

教室に行きたくとも行けなかったこと、友達らと同じ行事に参加できなかったことが本当に悔しく、「なぜ身体がひとつしかないのだろう。身体が2、3つあればいいのに」と思っていました。

そうしたオリィの経験から開発されたロボットが、分身ロボット「OriHime」です。

病気や障害で身体を動かせないと、学校にも行けず、仕事場にも行けず、友達と遊びにいって思い出を作ることも困難です。

ベッドで毎日天井を眺めるのではなく、会いたい人に会えて、行きたい所へ行ける「心の車椅子」。

それが「OriHime」というロボットの原点になります。

レンタル価格と期間

法人向けレンタルパック 4万円/月~

個人向け、年間プラン 9800円/月~(別途初期費用が掛かります。)

※詳しい価格・プランはこちらから

OriHimeを使用する、もえPさんの声

分身ロボット

OriHimeパイロット、もえPさんの経歴

–OriHimeと出会うまでについて、教えていただけますか。

私は元々、「先天性右肺無形成症」という非常に稀な障害を持って生まれました。それは名前の通り、左側にしか肺がない状態です。

また同時に「側湾症」と呼ばれる、背骨が成長するにつれて曲がっていく病気も併せ持っていました。

小さいときから身体が弱く、生まれた直後から長期の入院を経験しています。

肺炎になれば、重篤な状態に陥ってしまうことも少なくなく、何度か生死をさまようこともありました。小学生のときは、山登りや運動会といったイベントごとは欠席することが多かったです。

–もえPさんの出身はどちらですか?

奈良です。ただ幼稚園の頃には東京の目黒区へ移り住んだため、小学生時代は目黒区で過ごしました。

その後は、中高時代に喘息で入退院を繰り返していたので、空気の良いところへ行こうと岡山での生活をスタートしました。

岡山に行ってからは長期入院は減りましたね。また、祖父母が医者だったこともあり、看病してくれる体制は整っていました。

しかし、それでもつらいことはあったので、大事なテストがあるときは酸素吸入をして通学し、なんとか卒業できたという感じです。

–当時、将来の夢はありましたか?

病院で過ごすことが多かったので、医療関係の仕事に興味がありました。看護師になりたいな、という気持ちは小学生のときからぼんやりとあったと思います。

他には、院内学級に通ってたくさんの人と触れ合うことができたので、院内学級の先生になりたいという気持ちもありました。

最終的には、身体のことなども考え、某大学の看護科へ入学することになります。

院内学級の先生
(院内学級の先生と再会したときの写真)

ただ、最初にお話しした「側弯症」の手術があり、大学生活は3か月ほどで終了しました。

このときの手術によって、元々あった肺の機能が半分くらいになってしまったんです。

最初は大学に戻れるだろうと思っていたのですが、想像以上に厳しいと少しずつ気づき始めました。

土日を除き週五日、理学療法と作業療法を1時間ずつ、毎日行っていたものの、主治医の先生からは「大学に戻れないかもしれない」と伝えられて。

正直、凄く悲しかったですね。

入院から3か月経っても退院の話はなく、それが2016年の12月になります。

また翌年には、何回か肺炎を起こしてしまって、一気に体力が落ちてしまいました。結果的に、寝たきり状態が1ヵ月ほど続き、この頃から電動車椅子を使っての生活が始まります。

2018年 9月には退院し、ヘルパーや訪問看護師の方に支えられながら、一人暮らしを再開できたのですが、それでもいくつかハードルはありました。

–どのようなハードルだったのでしょうか。

リハビリによる苦労もあったのですが、一番つらかったのは、車椅子での生活が想定していた以上に大変だったことですね。

大学生活を機に引っ越したマンションでは、車椅子がダメだったんです。

車椅子生活が始まってから気づいたのですが、マンションのエントランスが当時の自分には重くて開けなかったり、自宅までの坂が全然バリアフリーじゃなかったり。住むところも一から探すことになりました。

半年くらい探し回って、不動産も10件以上まわって。

車椅子になります」と言われたときは意外と受け入れられたんです。ただ実際に病院の外へ出るとなると、車椅子でいることの不便さを感じて。正直「どこにもいけないじゃん」と思いましたね。

「バリアフリーの物件を探しています」と伝えると断られてしまったり、「部屋の入り口にスロープ置いていいですか?」と相談すると「皆の共有スペースなので、スロープはおけません。」と言われてしまったり。

ただ最終的には、埼玉県内で物件を見つけることができ、そこの大家さんもすごく寛容な方でした。

スロープも許可をいただき、「何かあったらいけないから、緊急連絡先と病院の連絡先を教えて。」と言ってもらえたので本当に良かったです。

–そうだったんですね。

今までずっと入院していて、そこでは病棟でもリハビリ施設でも車椅子の人が多くいらっしゃいました。けど病院から一歩外に出ると、車椅子の人は全然いませんでした。

皆が「やりたいこと」や「将来の夢」に向かって活動しているとき、自分は生活するだけでも一苦労でした。

料理をするだけで息がきれ、寝こんでしまって1日が過ぎたり。自分は精一杯なのに、他の人はそれ以上の日々を送っているように感じられて、当時は自分と比較してしまいました。

そして、2019年の1月頃には「適応障害」「うつ病」「非定型神経性無食欲症」と診断され、体重も3ヶ月で6キロほど落ちてしまいます。

ただ今でも不思議なのですが、そうした状態なのにもかかわらず、「テレワーク」とか「働きたい」とか、インターネット上でいろいろと検索していたんです。

「障害者 働く」とか「車椅子ユーザー 働く」とかもですね。

そのときは無心だったのですが、今思えば「居場所」が欲しかったんだと思います。

OriHimeともえPさん
(病室から操作する、もえPさん)

分身ロボットカフェとの出会い

–分身ロボットカフェを知ったのはその頃ですか?

はい。ちょうどその頃、分身ロボットカフェの動画をYoutubeで発見しました。

車椅子ユーザーの方や自分と似たような経験をされてきた方が働いている動画で、すごく惹きつけられたのを記憶しています。

分身ロボットカフェの動画は、過去ばかりに向いていた自分の気持ちを、未来に向けさせてくれました。

そして、ちょうど募集期間だったこともあり、必死に応募フォームを記入しました(笑)

志望動機は、「生きるチャンスをください!」くらいの気持ちで書いて、一次審査を無事通過することができました。

–すごいですね!

ただ、一次審査が通ったあとに体調が崩れてしまったので、二次審査に進むかは悩みました。「死にたい」という気持ちも、当時はあったので。

次面接は3回ほど延期をお願いしていたので、もう難しいだろうとも考えていました。

それでも少しずつ回復していくなかで、主治医の先生に応援してもらったことがあり、ダメもとで受けてみたんです。

そうしたら、2週間後に合格の連絡をいただけました。

–分身ロボットカフェでの体験について、お伺いしてもよろしいでしょうか。

私が参加したのは、第2回からのカフェで、時期としては去年10月と今年1月の2回になります。

10月の分身ロボットカフェは全てロボットが行うという実験で、テーブルでお客さんの注文をお伺いしたら、それをキッチンに投げ、OriHime-Dがお運びするという流れでした。

OriHime-D
遠隔での肉体労働を可能にする大型分身ロボット。外出が困難な方の遠隔地での接客や物の運搬を可能にする。ロボットの全長は約120cm。OriHimeと同様にカメラ・マイク・スピーカーが搭載されている。サイトページはこちら

一方で、1月の分身ロボットカフェは、実店舗のWIRED TOKYOで開催しました。このときは、分身ロボットカフェのエリアが決まっており、そのなかでOriHime-Dを操作していました。

10月の分身ロボットカフェは、失敗できないという気持ちで挑んだものの、他のパイロットが操作するOriHime-Dとぶつかってしまって。お客さまには温かく見守っていただきました。

1月の分身ロボットカフェでは、OriHimeを知らないという方も少なくなかったので、様々なアドバイスやフィードバックをいただきました。

そこで「お客さまを楽しませる」ということについて、改めてパイロット仲間と学ぶ必要があると感じました。

1月のカフェでは、SNSで私を知り「会いたい」と来てくださる方もいたのが印象的でした。なかには、涙を流して喜んでくれる方もいて嬉しかったです。「OriHimeを通して、もえPさんの表情が浮かんできます」と言ってくれた方もいて、その言葉は本当に印象的でした。

–1月と10月の分身ロボットカフェで、それぞれ違った学びや経験があったのですね。

そうですね。ちなみに、1月のカフェではチリからの取材がありました。

私は出勤していなかったのですが、OriHimeパイロットが使用するチャットにはたくさんの情報が流れて。

「チリ語のあいさつを調べたんだけど、どう?」みたいな(笑)

自分たちの状態は相手からは見えないため、裏でたくさんのメッセージをやり取りし、何事もなかったようにチリ語で挨拶をすることができました。

–OriHimeならではの体験ですね(笑)

もう1つ、お子さんがいらっしゃったときに、その子がアレルギーでどの飲み物もダメだと分かったんです。

その際は、裏のチャットで「何番テーブルのお子さんがアレルギーでどの飲み物も飲めない」という情報が共有されて。上手く店員さんとも連携できたので。事前にオレンジジュースを用意していただき、お子さんにも喜んでもらうことができました。

OriHimeは、しゃべりながらポーズを取ることができるので、常に楽しんでもらえるような「つなぎ方」が可能です。

それぞれの体調に合わせながら、シフトを組んでもらえているので、私も含め柔軟に働ける環境だったと思います。

OriHimeを通して、これからやりたいこと

OriHimeかわゆす
(カフェの仕事終わり、 居酒屋での1枚)

–もえPさんが、OriHimeを通して今後やりたいことはありますか?

カフェを始めて、色々な方とお話しするなかで、「もえP、夢はないの?」と聞かれることがありました。

そのときに浮かんだのが、「OriHimeで外出が困難な子供たちを外に連れ出したい」という夢でした。例えば、OriHime遠足とか、OriHime修学旅行とかですかね。

自分自身、小学校時代は病院の天井を見ている思い出しかないくらい、イベントの思い出がありません。気づけば「悲しい」とか「疎外感」という感情を持っていました。

また院内学級のお友達で、すごく仲良くなった子がいたんです。当時、小学校3年生くらいで、その子の病気などは全然分からずに仲良くなりました。

そのときは、「これからもずっと、あの子は元気でいる」と思っていたので、同じ病室だったこともあり、私が先に退院するとなったとき、「一緒にディズニーランドへ行こうよ」と約束をしたんです。

ただ、その子が退院する気配は全然ありませんでした。

連絡がきたのは私が高校1年生のときです。「○○ちゃんが亡くなりました」というお知らせでした。

そこで初めて、その子の病気について伝えられ、実は本当に外に出られない生活だったことを知りました。

OriHimeと出逢ってからは、そのときのことをよく思い出します。

「あのとき、OriHimeがあったら一緒にディズニーランドへ行けたのかな」など。

「悲しい」とか「つらい」とか、それだけを抱えて人生が終わることを想像するのは、すごく悲しいです。

私は、外の世界に飛び込んで、いろいろなものを見て感動して、それを誰かと共有することで、心に刻まれるものがあると思っています。

1人でも多くの人が「外出」できる世界が訪れるよう、取り組んでいきたいです。

もえPさんのメッセージ

OriHimeパイロット

OriHimeの利用を検討している人に向けて

–病気や障害に限らず、外出が困難な人はいるかと思います。そうした方々に向けて伝えたいことはありますか。

私はときには仲間とサッカーをして、ときにはカフェの店員をして、ときには海外旅行に行っています。

これらは全てOriHimeを通してです。

たとえ外出が困難であっても、分身ロボットがあれば、大切な人とかけがえのない時間をシェアできます。思いがけない人と出会い、たくさんの人と繋がれるようになります。

OriHimeを持つことで、本当に世界が広がると思っているので、自分らしい使い方を試してみて、自分の知らなかった可能性を広げて欲しいです。

社会に向けて

分身ロボット
(取材はオンラインで行いました。)

–最後に、社会に向けてのメッセージをお願いします。

今、新型コロナウイルスの影響で、本当に外出困難な方々が多くいらっしゃると思います。

皆さんは、ストレスを感じているでしょうか。不自由を感じているでしょうか。

それらは何らかの理由で、普段外に出られない人たちが日常で感じているものと同じかもしれません。

今回の騒動で失ったものは、本当にたくさんあると思います。しかし、得られるものもあると考えています。

こんなときだからこそ言いたいのは、「変わりませんか」ということ、そして「変えましょうよ」ということです。

普段から社会と隔絶されてしまっている人たちの気持ちに、寄り添ってみませんか。

私はOriHimeと出会っていなかったら、今ここで生きていないと思っています。人との繋がりが私の命を繋ぎ止めてくれました。

私たちみたいな外出が難しい人も、働きたいし、社会と繋がっていたいんです。

「今よりもテレワークがより普及しますように。」

「外出困難な人が働ける場が増えますように。」

「1人でも多くの命が救えますように。」

以上が、私のメッセージです。

取材協力:オリィ研究所
所長室:濱口 敬子|OriHimeパイロット:もえP

【編集後記】

エストニア!

上の写真は、もえPさんがエストニアへ旅行に行ったときの1枚です。エストニアはもちろん、ヨーロッパへの旅行経験がない自分にとっては、正直羨ましすぎる写真でした(笑)
私たちが生きる現代は、テクノロジーを活用し、不可能を可能にしていく時代だと感じています。これまで多くの人たちが考え、夢見てきた世界を少しずつ社会に「実装」している段階です。
「課題先進国と言われる日本だからこそ、明るい未来が率先して描けるのではないか」
もえPさんのインタビューを通して、少し先の美しく優しい未来が垣間見えました。

(編集:伊藤弘紀|Twitter)

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