麻生真里が事故で絶望してから10年。歩けないことを受け入れられなくてもいい

タレント・モデル
麻生真里 あそう まり (アメブロTwitterインスタCD)
元サンミュージック所属。10年前に交通事故に遭い胸椎を損傷。車椅子ユーザーになった。
幼少期からバイオリンを習い、現在はタレントやモデル、シンガーとして幅広く活動している。

自分が一生のうちで歩けなくなる可能性を考えたことがありますか?

交通事故に遭うなどして脊椎を損傷すると、身体にまひが残り下半身不随や四肢不随となり歩けなくなる可能性があります。ある調査によると一生のうちで交通事故に遭う確率は約35.8%と言われ、決して低い数字ではありません。

しかしこの可能性を理解していても、どこかで「車椅子なんて自分には関係無い」と考えている人は少なくないのではないでしょうか。

今回Puenteでは、タレントやモデルとして活躍している最中に交通事故に遭い車椅子ユーザーとなった麻生真里さんにインタビューしました。

事故から10年経った今でも「歩けないことを受け入れられてはいない」と語る麻生さんに、入院中の心境や活動を続ける理由、今後の活動について伺います。

麻生真里とは

ーー麻生さんのご経歴を教えてください。

高校生の時にスカウトされタレントやモデルとしてテレビやCM、VPに出演したり、ライブ活動をしていました。当時はアルバイトをしながら活動していて、やっとタレントとして食べていけるようになったと思った2010年に事故に遭ってしまい、それからは車椅子を使って生活しています。

 

事故について

ーー事故の瞬間は覚えていますか?

事故や手術の記憶は全くないです。目を覚ましたら病院のベッドにいて、「真里ちゃん、真里ちゃん」と両親が名前を呼んでいました。

翌日に目を覚ましたと思っていましたが、結構時間が経っていたみたいです。何日くらい経っていたのかも、何月何日に目を覚ましたのかもわからないです。

私は搬送されてすぐに手術をしたらショック死をしていたみたいで、病院ではモルヒネ(鎮痛、麻酔作用がある)と栄養を点滴で入れて私を眠らせている間に、脊椎損傷の手術が得意な先生をいろいろな病院から集めて医療チームを組んでくれました。「99%は助からない」と言われていたので、助かった私は幸運でした。

聞いた話によると、私は車に跳ねられたというより飛ばされたというのが正しいみたいです。普通なら怪我をして血を流したりすると思うのですが私に外傷は一切なく、顔に擦り傷すらないのに肺や内臓に血や水が溜まり、脊髄が砕けて胸椎を損傷していました。 

目を覚ました時には「やたら背中が痛いな」「人が乗っかったようで足が重いな」とは思いましたが、まさか歩けなくなるとは思っていなくて、少し入院したら退院できるだろうと思っていました。

なのでお医者さんが来て「話があります」と言われた時には「退院する日が決まったんだ!」と喜んで「いつですか?」と聞いたのですが、話の内容は真逆で「歩けません」と言われました。

脊椎損傷とは
脊椎損傷には完全麻痺と不全麻痺があり、損傷された脊髄から遠位の運動・知覚の障害がでる。完全麻痺では下肢が全く動かず(頚椎では四肢が全く動かない)、感覚もなくなる。

(参照元|日本整形外科学会)

 

車椅子生活になることの受容

ーー目を覚ましてから車椅子生活になると知るまでに時間があったのかなと思います。知ったときはどう思いましたか?

まずICU(集中治療室)に行きそれからHCU(高度治療室)に行ったのですが、ここで車椅子になると知りました。

車椅子になると知ったときには「終わったな」と思いました。

もちろん電話も触れない状態だったので、事務所にも連絡が取れていなくて、入っていた仕事のスケジュールに穴を開けたと思い、今までやってきた仕事も全部ダメになったと思いました。マネージャーさんも何がどうなっているのかわからない状態だったと思います。

目を覚まし、脳が動いて思考できるようになってからは「どうしよう、どうしよう」「入院ってまだしてないといけないのかな」と思ったり、とにかく焦りました。

 

–そこからどのようにして車椅子生活になることを受け入れられたのでしょう?

正直、今でも受け入れられてはいないと思います。

例えば日常生活で、片足をついたらすぐ手に届くものってありますよね。ですが今は1度車椅子に乗らないと届きませんし、家にあるたった10cmほどの段差も越えられないので大がかりなスロープを作ってもらっています。

歩けていた時の感覚を知っているからこそ「たった10cmの段差にこんな大掛かりな工事をしなくてはいけないんだ」「歩ければ気にすることすらない段差なのに」と思ってしまいます。

(リハビリの様子)

 

入院中の振る舞い

ーーそう思っているときにもお見舞いは来てくれると思います。どう振る舞っていましたか?

とにかく明るく振る舞っていました。「元気?大丈夫?」と聞かれたら「元気だよ!全然大丈夫だよ!」と言っていました。

最初はすごく泣いていて、涙を拭く気力もなくベッドに涙のシミがスーッと広がって濡れていましたが「このままだと親にも心配をかける」と思い、親にも病院の先生にも誰にでも、とにかく明るく、なんなら笑わせるぞくらいの勢いでした。

そうしていたのは自分がもし親だったらと考えたら「不安になったり心配になったりするんじゃないか」ということが頭をよぎったからです。

それから「この人、精神的に落ち込んでいてやばいんじゃないかな」と思われてそれでまた入院するとなるのも嫌でした(笑)。私にとって生まれて初めての入院で、とにかく早く退院したかったんです。

結局1年くらいで退院しました。私は早い方だと思います。

大きい病院は大体3ヶ月くらいで転院しなくてはいけないので、1年くらい経った時に「自立の為に国立障害者リハビリセンターに行った方がいい」言われたのですが、「私はできるから大丈夫です!」と断って退院しました(笑)。

(オーダーメイド専門店アトリエ エスプリローブ 鈴木綾さんのドレスを着用)

国立障害者リハビリテーションセンター
障害のある人々の自立および社会参加を支援するため、総合的な医療・福祉サービスの提供、新しいリハビリテーション技術や福祉機器の研究開発、リハビリテーション専門職の人材育成、障害に関する国際協力等を行っている。

(参照元|国立障害者リハビリテーションセンター)

 

リハビリ

–国リハに行かなくてもリハビリはしていたと思うのですが、どのようなリハビリをしていましたか?

3ヶ月目では足を動かさないと血栓ができてしまうので先生が足を動かしてくれたり、重いものを持ち上げたり、簡単なリハビリから始まりました。

「リハビリをして歩けるようになるのならいくらでも頑張ろう」と思いましたが、絶望感の方が大きく「これをやっても歩けるようにならないのなら、やらなくていいや」とリハビリの時間もふざけて面白く過ごせればいいと思っていました。

なので早く車椅子の生活に慣れるために真面目にリハビリに取り組んだということはなくて、とりあえず早く退院したい一心でした。

 

–先ほどプッシュアップ(両腕で体を持ち上げておしりを持ち上げる)を見せてくれましたよね!退院した後にできるようになったのですか?

私はバイオリンを弾くために体育の授業に参加していなくて、とにかく体力がなかったんです。なので入院中にプッシュアップをしてみても全然できず、家に戻ってからも介助がないと車椅子からどこかに移ることはできませんでした。

でもやっぱり「自分でなにかしたい」と思った時に誰かがいないとどこにも行けないので、なんとなく知っているやり方でやっていたら、そのうちできるようになりました。

プッシュアップとは

(参照元|理学療法ジャーナル 33巻10号 )

 

–すごい!ほかに日常生活を通してできるようになった事はありますか?

車椅子から落ちちゃったことが何回かあったのですが、私は床から車椅子に乗るリハビリもしてきませんでした(笑)。

1回目は電話で助けを呼んだのですが、2回目は電話が手の届かない場所に落ちてしまって「誰かに見つけてもらうまでこのまま床にいるのか、どうしよう」と思って、思い切り力を入れたら車椅子に乗れました。

車椅子になってからすごく慎重になっていて、例えば「車椅子がこの角度なら移れる」とか頭の中で計算するようになりました。移るのも少しずつ微調整して「この角度ならいけるな」という時に「せーの」で移る感じです。

トイレなどにも移ったことは無かったのですが今では移れるようになりましたし、入院していた時よりも退院してからできるようになった事がたくさんあります。

 

車椅子になってから感じた困難と支え

–助けを呼んだり、ほかの人の力が必要な時に、例えば声をかけられてうれしかったことや逆に傷ついてしまったことはありますか?

たくさんあります。

「車椅子を押しましょうか?」と声をかけてもらえるのは嬉しいです。「この坂登れないなどうしよう」と困って他の道を探してきょろきょろしていると、知らない人が「押しますよ」と声をかけてくださって「いい人っているんだな」と気付きました。

逆に傷つくこともあります。例えばタクシーに乗る時は運転手さんに車椅子をたたんで後ろに積んでもらう必要があるので、やっぱり嫌な顔をする運転手さんはいます。

「はぁ」とため息をつかれたり、車椅子を雑に扱われたり、道端で倒されたこともありました。そういう時はタクシーを降りて「やっぱりいいです」と言いたいのですが、歩けないからどうしようもできなくて「本当だったらかけなくていい手間を掛けてしまってすみません」とひたすら謝っています。

それでも無視されるときもあって「悔しいな」と思います。車椅子に乗っていて前向きな方もいらっしゃいますが私は「歩けたらこんなことなかったのに」と自分を責めてしまいます。

私には私の考え方があって、歩けないことを受け入れられなくてもいいと思っているし、実際にマイナスにならなければマイナス思考なのもいいと思っています。「下がっても何歩か前に進めればプラスマイナスだとプラスになるからいい」というのが私の生き方です。

 

アメブロで1位を獲得した麻生真里のブログ

–怪我をしたばかりだと前向きな人の話は受け入れにくいという意見も聞いたことがあるので、受け入れられなくてもいいという考え方があるのはいいですね。

ブログを見ていただければわかると思いますが、私は前向きなことばかりは書いていないんです。「こうだから私は歩けないことを受け入れられていないし、表向きではこう言っているけど実は自分の中の考えはこうだ」という書き方をしています。

アメブロで1位になったときのブログを読んでくださっている方が多くて、同じように「歩けないことを受け入れられない」と思っている車椅子の方が「すごくわかります」とコメントをくれるのはうれしかったです。

 

ーー車椅子になった経緯をファンに公表したのはそのブログが初めてですか?

そうですね。自分から「私は車椅子になりました」と言うことでもないと思いましたし、SNSなどで気付く人が気付けばいいと思っていたので、それまでは車椅子の写真などはあまり載せないようにしていました。

あのブログを出したのは、2019年の4月にお父さんが亡くなった事が大きくて、お父さんと同じように「この先どうやって生きたらいいのかわからない」と思っている家族がいるかもしれないと思ったからです。

私が歩けなくなってからお父さんは「危ないから外に行くな」「それはやるな」と過度な過保護になってしまって、私は「自分でできるのにそんなに手を出さなくていいよ」と思っていました。

でもお父さんが亡くなって、娘が死ぬかもしれないとなったとき「もし自分が親だとしたら、自分の命よりもこの子が助かってほしい」と思うのではないかと気付きましたし、そういう親子はたくさんいるのではないかと思いました。

そういう人たちに、私は怪我をして「終わった」と思ったけれど時間は平等に進んでいるし、その先には違う未来があるんだということを伝えたくてブログを書きました。

 

タレント麻生真里として

ーー車椅子になってからも活動を続けようと思ったのはなぜですか?

ずっと付いてきてくれるファンがいたからです。事故に遭ってブログの更新が途絶えていても、私を待ってくれているファンの方々がいました。

それから私にとっては、車椅子になったからといって活動に関しては何も変わっていません。 

私は「車椅子モデル」や「車椅子タレント」という表現があまり好きではなくて、できれば車椅子が頭につかない今まで通りのタレントの中に入りたいんですよ。でも日本はそういうのが進んでいなくて「車椅子の〇〇」「知的障害の〇〇」など頭に障害が付いてしまうんです。

なので何十年後には健常者の中に1人車椅子の人がいることや、障害があってもタレントやモデルをすることが「車椅子の〇〇」と言われないくらい当たり前になっていたらいいなと思って活動を続けています。

 

ーー今後やりたいことはありますか?

たくさんあります。まず歩けなくなって1年目くらいから思っていてまだ実現していないことなのですが、会社を作りたいと思っています。

私はタレントとして活動している途中で事故に遭ったので、そのままタレントとして活動を続けていますが、例えば生まれつきの障害がある子どもが「アイドルになりたい」「モデルになりたい」と思ってもその道が日本にはあまりないのではないかと思っています。

夢はあるけど「障害があるから私には無理」と思っている方に、私がイベントを開いて一緒に歌ったり踊ったり…人前で何かする事をやってもらうなど、障害のある人たちをサポートして道を作りたいと思っています。

福祉アイドルグループ「GRITTER」結成

それから歩けていたころと同じように、またバラエティ番組に出たいです。私は元々、小島よしおさんやカンニング竹山さんが所属しているサンミュージックという事務所に所属していてバラエティ番組が好だったのですが、車椅子になってからは福祉や車椅子関係で番組に呼んでいただくことが多くなりました。

下ネタの5・7・5だけを書いたブログがあったくらい下ネタが得意で、下ネタなら誰にも負けない自信があるので車椅子関係なくバラエティ番組の一般枠に入っていきたいです。

 

それから商品開発もしたいです。車椅子のものって地味なものが多くて、私は例えば車椅子の後ろのバッグを特注したりカスタムしているのですが、そういう車椅子の可愛いものを作りたいです。

 

洋服もみなさんが着るようなものを着たいけど、車椅子だと立てないからスカートを履くのも難しいんですね。撮影のときは皆さんと違って何パターンも着替えられず、着てきた服で撮影するので悔しくはなります。なので障がいがあっても着やすい「ユニバーサル・デザイン」の洋服を開発するのが好きで作っています。

 

また、私が素でいられるのは自由にやらせてもらっているライブなので、ライブは継続して続けていきたいです!

出演者の中に車椅子の人は私1人なので、やっぱりステージに立つと「車椅子の人がどうしたの?」と思われるんですけど、ライブはトーク力や技術次第なので、そこで笑わせたら私の勝ちじゃないですか。なので「私は車椅子になってもどうしても下ネタが頭から離れません」など、その時のお客さんの雰囲気を見て「どうやったら笑ってくれるかな」と考えてライブをしています。

 

麻生真里さんからメッセージ

ーー最後に、メッセージをお願いします!

歩けなくなったことは私の中で失ったものが大きく、歩けなくなって10年以上たった今でも泣くこともあります。不謹慎かもしれませんが、私は車椅子なんて自分には全く関係無いと思っていたし、まさか自分が事故に遭うなんて思ってもいませんでした。

でも歩けなくなってから気付いたこともあって、例えば今こうやって喋れていることや、指を動かしてブログが書けていること、自分が飲みたいと思ったときに飲み物を飲めることなど、足以外の他の部分が不自由なく動いていることが、すごいことなんだと思うようになりました。

階段を登るときに「右足を何㎝上げて、左足を何㎝上げて…」と考えずに過ごせていた、そういう当たり前に生活していたことがすごいことだとは車椅子にならなければ感じることができていなかったと思います。そこに気付けたというのは失ったものが大きい分、得たものも大きいかなと思っています。

 

麻生真里さん各種SNS情報

◇Amebaブログ|麻生真里オフィシャルブログ
◇Twitter|@MariAsoOfficial
◇Insta|@mariaso_official

◇LINE@


1対1でメッセージのやりとりをしています。私の力でできることしかできませんが、何か困ったことがあったらぜひ声をかけて欲しいと思っています。

◇CD


明るい下ネタの歌を歌っています。プロデューサーに「下ネタの歌を女の子が歌うってまだいないからやろうよ」と言われ「絶対誰もやっていないし、バラードじゃないなら」という事で歌を始めました。バンドは近藤真彦や工藤静香の演奏を担当していたようなプロで組んでいて、その代わりに私の歌が下手というアンバランスさが売りです。

 

【編集後記】
今回インタビューしたのは麻生真里さん。10年間歩けないことを受け入れられずとも向き合ってきた、麻生さんの貴重なお話を聞くことができました。緊急事態宣言を受けて初めてのオンラインでの取材となりましたが、下ネタの5・7・5を披露してくださるなど、麻生さんのギャップやトーク力もありとても楽しい取材となりました。バラエティ番組の出演など、今後の活躍にも期待です!
(編集者|佐藤 奈摘)

2 COMMENTS

麻生真里

ありがとうございます。でも事故にあって気づいたのがとても大きかったです。もしあのまま歩けてたら歩けることが当たり前だとすら思わない程当たり前に生きていたなと感じています。

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