YouTuber
寺田ユースケ(寺田家TV)Twitter|YouTube
1990年生まれ、愛知県出身。
生まれつきの脳性まひで、大学生の頃から車イスに乗り生活している。大学卒業後、お笑い芸人としてデビュー。2016年には乙武洋匡さんの一言で新宿歌舞伎町のホストクラブで『車イスホスト』として働く。その後、車イスヒッチハイク旅『HELPUSH』で47都道府県をめぐり、現在は車イスの車イスによる車イスのためのレストラン『バリアフルレストラン』の店長や、YouTubeチャンネル『寺田家TV』で活躍中。
「偏見にまみれていたのは僕でした」
チャンネル登録者数42,000人(2020年5月20日現在)のYouTuber、寺田ユースケさんはホスト時代のことをそう振り返ります。
生まれつきの脳性麻痺があり「障がいを差別してほしくない」と思っていた寺田さんですが、あるきっかけでホストになり、自分がホストに対して無意識の偏見を持っていたことに気が付いたそうです。
多くの人が持っているであろう無意識の偏見。それに気がついた寺田さんは「架け橋になる」ために現在も活動を続けています。
今回は、寺田さんの学生時代からお笑い芸人、ホスト、ヒッチハイク、バリアフルレストラン、YouTubeまで幅広くお話を伺いました!
目次
寺田ユースケの経歴
ーー寺田さんはご経歴が複雑ですよね。
生まれつきの脳性まひという障がいがありまして、20歳のころから車イスに乗っています。自分の歩く姿に対してネガティブだった僕にとって、車イスはまさにシンデレラに出てくる「かぼちゃの馬車」のようでした。
大学生の頃留学に行き、帰国後お笑い芸人になりました。その後は新宿の歌舞伎町で『車イスホスト』として3年ほど働いています。ホストを辞めた後、47都道府県ヒッチハイクの旅『HELPUSH』で、車イスを押してもらいながら全国各地を訪れ、約1000人以上の方々に車イスを押してもらいました。
そんな中プライベートではまゆみと結婚をし、『寺田家TV』というYouTubeチャンネルを夫婦で立ち上げ、現在はYouTuberとして活動しています!
車イスに乗るまで
ーー車イスに乗る20歳までは、車イスに乗ることをどう思われていたんですか?
生まれつきの脳性まひという障がいなので、足を引きづるような形で、頭を大きく左右に揺らしながら歩いていました。この例えが正しいかどうかはわかりませんが、ティラノサウルスというか宇宙人というか(笑)
今だったら笑えるんですけれども、奇抜な歩き方をしていたので、当時は自分の歩く姿に対してネガティブで、鏡を見るのも嫌だったんです。
大学でひとり暮らしを始めた19歳ごろから「車イスに乗りなよ」と両親や周りの人に言われるようになりました。
でも当時は「歩いて生活をしたい」という気持ちが先行していて、僕は生まれつきの障がい者ですが「『車イス=障がい者が乗る乗り物』だし、そんなのに乗りたくない」という矛盾がありました。
ーー車イスに乗ったとき、どうして「かぼちゃの馬車」のようだと思われたんでしょう?
いろいろなところに行けるようになったんです。今までは10mほど歩いたら休憩したり、汗も大量に出て見た目も悪く、歩いている姿をあまり見られたくなかったんですね。
でも車イスに乗ると汗も流れないし、階段などがない限りずっと移動ができるので、僕の中で移動革命が起きたんです。
大学生時代の寺田さん(18歳)
車イス芸人
ーー車イスに乗ってポジティブになり留学に行った後、お笑い芸人になられていますが、留学でなにか心境の変化があったのでしょうか?
ありましたね。お笑い芸人になった大きなきっかけは2つあって、1つは大学の友人です。
車イスになって初めてできた友人が、いわゆる「在日韓国人」だったんです。白い目で見られた経験や、家族の事など、何かと共通点が多くて仲良くなりました。
ある時、僕がお酒を一口飲むとその友人が「ユースケそれ飲酒運転ちゃうん?」とボケてくれたんですよ。僕もまだ乗り始めたばかりだから「わからない、とりあえず飲酒運転になったらヤバイから、車イス押して」と言いました。
そうしたら「いや、飲酒運転幇助罪(ほうじょざい)があんねん。押したら俺もつかまんねん」と、吉本新喜劇テイストの笑いを作ってくれました。
今まで、自分の身体や見た目を笑いにしてはいけないと思っていたんですけど、友達が僕の特徴を笑いに変えてくれたんです。
在日韓国人
日本に在留する韓国人のこと。未だに差別が残っており、ソフトバンクの孫正義社長も幼少期から差別を受け続けてきたと言う。
留学は、当時の考えでは、就職活動をするうえで「人より優れていないといけない」という思いがあったんです。それで単身で11か月間、イギリスに留学することを決めました。
留学中に観たイギリスのコメディ『Mr.ビーン』の中に、視覚障がいのある方がバスに轢かれそうになるコントがあるんです。すごくブラックジョークなんですよね。でも、それがめちゃめちゃ面白いんです。「日本でこんなことをやったら批判がくるだろうな」と2012年の当時は衝撃を受けました。
このコントも「車イス飲酒運転ちゃうんかい」と友人が笑いに変えてくれたのも、仲間内ではすごくウケていたのですが、そこから1歩出ると「車イスだから」とすごく遠慮される自分がいたんです。
留学から帰ってきて「きっと笑いが障がいや偏見っていうものを無くしてくれるんじゃないか」と思い、吉本さんのNSCという養成所に入りました。
ーー車イス芸人になられて、障がいを笑いにした反応はどうでしたか?
ひとことで言えば、僕の力不足ですね。そこは言い訳したくないです。当時「障がいを笑いにしたい」という気持ちはおそらく誰よりも強かったと思います。ただ、お笑い力が誰よりもなかったという(笑)
舞台に出て、もちろん滑りました。具体的な例を1つ言うと、NSC時代にコンビを組んだ相方に「車イスも笑えるようにしたいから、突っ込みで車イスを蹴ってくれ」と言ったんです。相方は「やめよう」と言ったんですけど「蹴るぐらいじゃないと日本の笑いは変えられん」と言いました。
本番、相方は僕の書いた台本通り車イスを蹴ってくれたんです。でもネタ見せが終わった後、講師の先生にめちゃめちゃ怒られました。「どっちがネタ書いたんだ」と言われ、僕は怖すぎて黙って、相方がずっと説教を受け続けるという、申し訳ないことをしてしまいましたね(笑)
無意識の偏見に気がついた『車イスホスト』
ーー相方さんも優しいですね(笑)。その後、ホストに方向転換をするわけですが、何がきっかけだったんですか?
本当に予想外で、まさか自分がホストになるとは思っていなかったんですよ。
きっかけは『五体不満足』の著者の乙武洋匡さんの一言でした。乙武さんは、障がいがあるのにテレビやメディアでジョークをかましていたり、強気な発言をしていたり、僕の中では障がい者のキング的な存在なんですよ。1人で矢面に立ってきたヒーローのようです。
上京した時から運よく乙武さんに公私ともに良くしてもらっていて「芸人を辞めて、もうどうしたらいいかわからないです。上京したけど道がなくなってしまいました」と相談をしたんです。
そしたら「車イスでホストやったらどう?」と提案されました。「え!ホスト?こんな変化球くるの?」と度肝を抜かれながらも、乙武さんの提案だったので、二つ返事で「やります!」と言いました。
ですが、家に帰って改めて考えたら、やっぱり怖かったんですよ。当時の僕はホストの方に「女性をだましてお金を巻き上げたり、お酒を飲みまくって暴力振るいまくる人たち」というイメージがありました。
「車イスを沈められるんじゃないか、パンクさせられるんじゃないか」と思ったりして、一度「やっぱり辞めます」と乙武さんにLINEで長文で断りました。でも「なぜ断ったんだろう、これでいいのかな?」と漠然とした疑問があって、半日後に「やっぱりやります」と言い、すごく揺れ動いていました。
結局、歌舞伎町に行き面接を受けました。いい意味でも悪い意味でも「どうにでもなれ」という思い切りはあったかもしれないですね。
ーー実際に働いてみて、どんな印象を受けましたか?
僕は車イスだけど少し立てるので、「クララ」という源氏名を命名していただきました。アルプスの少女ハイジにでてくる「クララが立った!」のクララです(笑)
僕以外は健常のホストの方でした。でもお店がアバンギャルド(先進的/革新的)というテーマなのでハーフの方、片親の方、中卒の方など、僕が今まで見てきた世界よりダイバーシティな世界がそこにはありました。なので車イスの僕が入ってもそこまで違和感なく受け入れてくれて、言い方が正しいかわかりませんが「意外と優しいな」と思いました。
ただ、僕にホストに対する偏見があったのがお店の人にも伝わってたらしく「クララはお店に入った当初、本当に性格が悪かった」と言われました。例えば僕がお客様を連れてきたら「他のホストは付かないでください」みたいなことを言っていたらしいんです。入った当初、偏見にまみれていたのは僕でした。
障がい者の姉を持つNo,1ホストとの出会い
ーーホストを辞めるまでにはその偏見は変わりましたか?
凰華麗(おうかれい)さんというNo,1ホストの方との出会いが、僕にとって重要でした。麗さんは歌舞伎町では誰もが知っているホストの方です。
そんな麗さんが、タクシーで家まで送ってくださったり、高い焼肉を食べさせてくださったり、新人の僕にすごく優しくしてくれたんです。「なんで麗さんは僕にこんな優しくしてくれるんだろう、おかしい。僕のことを騙しているんじゃないか」と、当時はそれくらい疑っていました。
でも、ある事件が起こりました。
麗さんのバースデーイベントで、ひとりのホストがマイクパフォーマンスをするんです。そこで麗さんが僕に「クララ、マイクで一言もらっていい?」と言って、僕が喋ると、麗さんが少し黙られてこう言いました。
みんなに言ってなかったことがある。実は俺のお姉ちゃんが障がい者で、生まれつきの半身不随があるんだ。俺は昔からお姉ちゃんがいじめられてきたり、変な目で見られてきたことを身近に見てきたから、クララの気持ちがすごくよくわかる。歌舞伎町という街は、クララのように障がいがあったり、片親や中卒、いろいろなハンデがあっても、全員が平等に活躍できる場所にしたいんだ。だから俺はクララのことを応援したい。
僕はその場で大号泣してしまいました。
これは辞めるときに聞いた話ですが、車イスだから僕だけ終電で帰ることに対してよく思っていないホストもいたそうです。その一人一人に麗さんが「クララは身体の都合で早く帰らなくちゃいけないけど、他のことでみんなと同じように頑張るから、認めてやってくれ」と頭を下げてくださっていたということも聞きました。
赤いジャケットが麗さん
ホストと障がい者の架け橋に
この麗さんの話を聞いたとき、会長が「ホストも同じなんだ」と言ったんです。
お互いを知らなかったから反発しあった。でも、お前もホストもお互いを理解するように向き合って、小さなコミュニティだけど、お前は障がい者とホストをつなぐ架け橋になれたんだと思う。それはお前の人生で胸を張ってやっていったらいい。知らなかったことから差別や偏見が生まれてしまっていたことは俺自身も勉強になったし、お前も勉強になったと思う。
衝撃でした。「障がいを差別して欲しくない」と言っている僕が、無意識にホストのことを差別していたんです。雷が落ちたようでした。
車イスヒッチハイクの旅『HELPUSH』
ーー障がい者とホストを繋ぐ架け橋になれた後、どうしてヒッチハイクの旅に移ったんですか?
歌舞伎町は特殊な街で「僕が活躍できるか」はまた別の話でした。この経験を踏まえて自分にできることを考え、まずは身体が元気なうちに47都道府県を周ってみて答えを出そうと、車イスヒッチハイクの旅『HELPUSH』をはじめました。
たまたま小さなホストクラブでホストと障がい者の架け橋になれたのであれば、全国で「車イス押してくれませんか?」と道行く方々と小さな縁を作って、それが何百人、何千人となればいずれ大きな輪になるのではないかと思い、人生を前に進めました。
ーー実際、寺田さんは架け橋になれていると思います。語り切れないとは思いますが、車イスヒッチハイクの旅での印象的な思い出はありますか?
1番思い出に残っているのは、福井県の東尋坊(とうじんぼう)というところに旅をした時のことです。
東尋坊
福井県にある国の天然記念物。波の浸食によって荒々しくカットされた断崖絶壁が1kmにわたり続く。「輝石安山岩の柱状節理」という奇岩は東尋坊を含め、世界3か所しかないと言われている。
行ったからには「崖の先端まで行きたい」と思いましたが、足場が悪くて車イスではなかなか行けなかったんです。そしたらヒッチハイクで東尋坊まで連れて行ってくれた方と、観光店のおばちゃんたちが出てきてくれて、肩を貸してくれながら崖の下まで降ろしてくれたんです。その時、みんなに見させてもらった景色はきれいでしたね。
東尋坊にて
ーー47都道府県ヒッチハイクの旅を達成した時は、どんな感情でしたか?
三重県の伊勢神宮で達成したのですが「ゴールした」というよりは、「新しい始まり」というイメージでした。
僕は元々『電波少年』や『ブラタモリ』『出川哲郎の充電させてもらえませんか?』など、ふれあい旅の番組が大好きだったんです。芸人時代は『ぶらり寺田旅』みたいな企画もしてみたいというプチ夢がありました。
最初は1人旅だったので、旅の記録が残らなかったんです。LIVE配信をやって「夢だったふれあい旅みたいなことはできるけど、全身が写らないな」と思っていました。
それでまゆみに「カメラマンとして一緒に旅についてきてくれないかな」と頼んだら後半から一緒に行ってくれるようになり、それがYouTubeに繋がりました。編集も断片的ですが、それでも自分が旅をしている姿が映像として残っているのがうれしかったです。
車イスを押していただいた方の感想が入っている動画もあるので「こんな人に会ったな」という喜びがありました。それにお忙しい人以外、誰も断らずに車イスを押してくれたので「自分が住んでいる国ってこんなに優しかったんだ」と思いました。
二足歩行者が障がい者の社会。バリアフルレストラン
バリアフルレストランは公益財団法人日本ケアフィット共育機構が運営する、車イスユーザーが利用しやすいように設計されたレストラン。二足歩行者が障がい者として扱われ、車イスユーザーがマジョリティの社会を体験することができる。2020年秋に一般公開予定。
ーーバリアフルレストランについて教えてください。
元々は車イスで起こるあるあるの情報提供をする『車イスアドバイザー』という形でお仕事をいただきました。今はバリアフルレストランの店長をやらせてもらっているのですが、僕は店長が天職なんじゃないかと思っています。
バリアフルレストランは「無意識の偏見に気づこう」「当たり前って何だろう」というものを問う企画なんですね。僕がホストの方々に無意識的に偏見を持ってしまっていたことが、こうしてバリアフルレストランと繋がってくるとは思っていませんでした。
たまたま声をかけていただいて今は店長をやっているので、鳥肌ですよね。「人生の経験は本当に点と点でつながるんだ」と思いました。
ーーバリアフルレストランは物理的なバリアだけではなく、気を遣っていたはずがそれが心のバリアになっていたり、そういった部分をすごく上手く気付かせる仕組みがあるなと思います。
そうなんです。障がいが自分の身体にあると考えるのが「障がいの個人モデル」です。自分の身体せいので、いろいろな困難が生じるという考え方です。
それに対して「障がいの社会モデル」は、困難が生じるのは段差などの偏りを放置している、社会のせいだという考え方です。バリアフルレストランは、この「障がいの社会モデル」を広めようという活動でもあります。
バリアフルレストランの仕掛け
物理的
天井の高さは170センチ、床は車イスで移動しやすいようにツルツル。テーブルの高さは腰くらいで、座席にイスはなく、二足歩行者は腰をかがめ食事をとる。
こころ
二足歩行者は入店時に「介助者の方はいないんですか?」と聞かれる。過剰な気配りを受け、キッチン裏からは店員に「対応が雑すぎます。僕だって正直来てほしくないよ。でもやんなきゃダメなんだよ。」と注意する声が聞こえてくる。
ーーバリアフルレストランを通して届けたいことはなんですか?
僕がホストの方々に対して無意識の偏見を持っていたことは、経験して初めて気が付いたことでした。
そういう風に「無意識の偏見に気づこう」「当たり前って何だろう」と問うバリアフルレストランでの経験を通して、お互いが歩み寄れるような、優しい世の中になってほしいなと僕は思っています。
YouTube『寺田家TV』
ーーYoutubeをはじめたのは、ヒッチハイク旅をしていた時ですよね。
はい、旅の様子をYouTubeにもアップし始めたのがはじめですね。
当時は旅に出て、当日の夜に素材をパソコンに入れて、まゆみと2人で2時くらいまで編集して、アップして旅に出るという、今考えたら地獄のようなスケジュールでやっていました。
YouTubeが軌道に乗るまで
ーーYouTubeが軌道に乗るまではどのくらいかかりましたか?
本当に覚悟を決めてYouTubeをはじめたのって、実は2020年の2月なんですよ。
最初の頃は、とりあえず動画をアップしていました。戦略や根拠も何もなく「とりあえず動画を上げよう」というのが2018、2019年の動画でした。
まず、最初にバズったのが2019年の2月の「障がい者の性」を語った動画です。
「性事情も明るく話せた方が楽しいよね」ということで車イスの友達に喋ってもらいました。その動画が空前の大ヒットで670万再生(2020年5月20日現在)していて、その時にチャンネル登録者数も1万5千人くらいまで増えていきました。
この動画は、前澤さんのお年玉100万円企画に当選し、新しいカメラを購入して心機一転で撮影したものです。それまでは旅をしていてお金がなく、リボ払いに苦しんで思い切ることができなかったので、前澤さんには感謝しています。
ZOZO 前澤さんの100万円 お年玉、当選しました!…信じられない。560万RTで100人。1/56000の確率!?
『100人にお洋服のプレゼント、最高じゃないですか!』のお言葉も。
動画を観てくれたみたいです↓https://t.co/0KeI6UOz7E
障害者100人でオシャレして表参道を歩きます❗️#月に行くならお年玉 pic.twitter.com/MnOnJyv95v
— 寺田ユースケ【寺田家TV】【バリアフルレストラン】 (@HELPUSH_STORY) January 8, 2019
「障がい者の性」の動画以降、YouTubeからある程度収入が入ってくるようになったので、そこから1年間は何でもやってみるという時期でした。
更新頻度を増やして、いろいろな動画をアップしていましたが、思うように再生数もチャンネル登録者数も伸びませんでした。編集も企画も2人きりでやっていて、しかも僕は障がい者で身体も大変なので、年末あたりに体調を崩すようになってしまったんです。
–そうだったんですね。何をモチベーションにYouTubeを続けられたんですか?
「『寺田家TV』のおかげで前向きになれました」「ユースケさんが頑張っている姿を見て僕も頑張りたいと思います」などのメールをいっぱいもらえるようになったんです。
ある時、福岡県の5歳の男の子のお母さんからひとつメッセージが届きました。
カイトは生まれつきの病気で、外に出られません。2歳半のときに余命宣告も受けてしまいましたが、今は病状も落ち着いて、なんとか生きていけています。ユースケさんのYouTubeを見ていつもけらけら笑っています。なかなか東京には行けないので、もし福岡に来ることがあれば教えてください。
めちゃめちゃ嬉しかったです。ちょうど前澤さんの100万円もあったので、すぐにまゆみと福岡まで行きました。
「一緒にラーメンをつくりたい」というカイト君の夢を叶えるために、ラーメン屋さんを貸し切らせてもらいラーメン作りをしたんです。そしたらものすごく喜んでくれて「この仕事いいな。YouTuberと名乗れるように頑張っていきたい」と思うようになりました。
2020年になった今、寺田家TVは編集メンバーを迎え『チーム寺田家』として再始動しました。
求められている動画は何か考えて、
『寺田家TV』再始動
ーー昔は夫婦2人でやっていたイメージですが、最近はゲストを招いた動画が多くなりましたよね。
そうなんです。2020年の2月からは、視聴者の皆さんに「こんなに面白い人がいるから紹介したい」という思いで、障がいのある友達に動画に出てもらっています。
子どもの頃、僕が障がいがあってなかなか外に遊びに行けないから「友達の誕生日会を寺田家でやる」という文化が寺田家にあったんです。友達は寺田家に来ると、特に意識することなく障がいのことをわかってくれました。
それをYouTube上でもやりたいと思っています。画面越しだけど寺田家に来てもらい、自然と障がいやマイノリティのこと、個性的な友達のことを視聴者の皆さんに知ってもらいたいです。なので動画の始まりには「寺田家へようこそ!」と言っています。
ーー『寺田家TV』のチャンネルを観ていれば、車イスの方だけではなくていろいろな障がいのことを知れるので、本当に架け橋だなと思っています。
ありがとうございます。まさに「架け橋になりたい」というのはずっとテーマとしてあります。そういう意味では僕だけが活躍してしまうと、脳性まひの僕のような人しか参考にならないんですよね。
YouTubeは、子どもたちに「もっと頑張りたい」「俺にもチャンスあるかも」と思ってほしくてやっています。
例えば全盲のすーちゃんみたいにすごい人がいたりとか、難聴のユカコさんみたいに口の動きだけで何を喋っているかわかる人がいると知ったら、全盲や難聴の子どもも「すーちゃんみたいになりたい」「ユカコさんみたいになりたい」と思えるじゃないですか。
今までお荷物に感じていたかもしれない障がいを、才能だと思ってもらえるような力が、出演してもらっているみんなにはあるので、それを届けていきたいです。
YouTubeで今後やりたいこと
–Youtubeで今後やりたいことはありますか?
ちょうど、子どもが生まれたんですよ。これからの人生はパパとして、仕事もYouTubeも子育ても全部うまくいくように頑張っていきたいと思っています!
ーーおめでとうございます!
ありがとうございます。めちゃめちゃかわいいんですよ。子育てのことなど、いろいろな情報を発信できるようになったらいいなと思っています。
2020年4月9日、たびくんを家族に迎えました
メッセージ
ーー楽しみにしています!最後に、メッセージをお願いします。
障がいのある子どもや、自分が人と違うことで悩んでいる子どもがいるとしたら、それは武器になり得るということを伝えたいです。
必ず武器になる訳ではないんですよ。もちろん、人と違うということは大きな重荷として自分にのしかかってくるものなんですよね。
でもドラクエで言ったら、ゲットした瞬間は使えないけど、磨いてもらうことで魔王を倒せるようになる素材みたいな(笑)。素材の段階では「なんでこんなの拾ったんだろう」と思うのものだけど、ちゃんと研いでいけば光るものになると思ます。
そう意味で僕を研いだのは、お笑い芸人のときやホスト時代に出会った方々や、ヒッチハイク、YouTubeの経験だと思っています。
車イス(障がい)×芸人×ホスト×ヒッチハイク×YouTubeとかけ合わせたことで、取材をいただけるようなレアな人になれてきています。こうやって、扱い方次第では武器になると伝えたいです。
【編集後記】
『寺田家TV』は夫婦の会話が面白く、ゲストが毎回素敵で、大好きなYouTubeチャンネルです!
後々知ったのですが、実はインタビューさせていただいた日は、ちょうどたびくんがはじめてお家に来た日でした。そんな大切な日にインタビューに応じてくださったり、子どもが泣いてることを気遣い小声で話したり、本当に素敵な方でした。
子育ての様子や、「装着型サイボーグHAL」によるサイボーグ化計画など、これからの更新も楽しみです!
(編集者:佐藤 奈摘)
あ~、本買ったのに、まだ読んでいないのに、概要がわかってしまった。
次のステップは、本人に逢う事かなぁ~❗️